2008年02月25日
オーストリア帝国の衰勢
こんな意味があったのですね。
疑問だらけだったのが、納得しました。
1848年革命はヨーロッパ中に波及し、ウィーンでも暴動が起こるなど混乱の中、フェルディナンド1世の後を甥の若き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が継いだ。しかし、すでに帝国は衰退傾向にあった。
1853年、不凍港獲得を目指すロシア帝国は、オスマン帝国との間に戦端を開く。これに対し、バルカン半島におけるロシアの影響力増大を恐れたオーストリアは、オスマン帝国を支持した。このため、ウィーン体制の成立以来友好を保っていたロシアとの関係が悪化した。これは神聖同盟の完全な崩壊を意味し、ロシアの後押しを失ったオーストリアは、ドイツ連邦内における地位を低下させた。1859年にはイタリア統一をもくろむサルデーニャ王国との戦争に敗北し、ロンバルディアを失った。1866年にもプロイセン王国の挑発に乗って普墺戦争を起こし、大敗を喫した。その結果オーストリアを盟主とするドイツ連邦は消滅してその面目を失うなど、確実に国際的地位を低下させた。
二重帝国の成立
この帝国の衰退に希望を抱く人々がいた。帝国内の諸民族である。先にあげたようにオーストリア帝国は、数多くの民族を抱える多民族国家であった。しかし支配階級はドイツ人であり、彼らだけが特権的地位を有していた。以前からドイツ人以外の民族の自治獲得・権利獲得の運動はあったが、帝国軍に鎮圧されていた。しかし、衰退傾向にあるこの時期、諸民族は活発に動き出した。そもそも民族運動が活発なのは、支配階級であるドイツ人が国内における人口の過半数を占めていないことも原因にあげられる。ドイツ人は帝国内の総人口の24%にすぎず、諸民族が力を持てばどうにも抑えようがなかった。帝国は改革を余儀なくされたが、改革路線として2つの道があった。
ドイツ人支配をあきらめ、諸民族との平等な関係にもとづく連邦国家とする。
帝国内人口20パーセントを有するマジャル人(ハンガリー人)と友好を結び、ドイツ人とマジャル人で帝国を維持する。
だが、特権的地位を手放したくないドイツ人達の抵抗、諸民族による支配で帝国の様相の劇的変化を恐れる、皇帝をはじめとする支配者の存在などの要因があいまって、後者の方針が採られた。その結果1867年、帝国を「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」と「神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」に二分した。このドイツ人とマジャル人との間の妥協を「アウスグライヒ」という。君主である「オーストリア皇帝」兼「ハンガリー国王」と軍事・外交および財政のみを共有し、その他はオーストリアとハンガリーの2つの政府が独自の政治を行うという形態の連合国家が成立した。これが「オーストリア=ハンガリー帝国」である。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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