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2007年10月01日

YS-11飛行機の歴史

YS-11


用途:旅客機
製造者:日本航空機製造
運用者:航空会社22社
初飛行:1962年8月30日
表示YS-11は、日本航空機製造が製造した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機。第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機である。正式な読み方は「ワイエスいちいち」だが、一般には「ワイエスじゅういち」、または「ワイエスイレブン」と呼ばれることが多い。時刻表ではおもにYS1またはYSと表記されていたが、全日本空輸の便では愛称『オリンピア』の頭文字Oで表記される場合が多かった


名称
機種名であるYS-11の「YS」は輸送機設計研究協会の「輸送機」と「設計」の頭文字「Y」と「S」をとったもの。一方、「11」の最初の「1」は搭載を検討していたエンジンの候補にふられた番号で、実際に選定された「ダート10」の番号は「1」であった。後ろの「1」は検討された機体仕様案の番号で、主翼の位置や面積によって数案が検討されていた。機体仕様案の中には第0案もあった。こうした命名の経緯もあって、当初、関係者のあいだでは「ワイエス・いちいち」と呼ばれていたが、いつしか、「ワイエス・じゅういち」と呼ばれるようになった。「1」のエンジンが2つなので「11」とする資料もあるらしい[要出典]が、双発機で異なるタイプのエンジンを1基ずつ搭載することはないので、この資料の信憑性は低いと思われる。

旅客機製作に理解を求めるため(と同時に国からの予算獲得のため)、1958年(昭和33年)12月11日に日本飛行機の杉田工場に、木材で設計通りに作った飛行機(モックアップ)を展示し、一般の人々に紹介したことがあった。そのときのキャッチフレーズが「横浜・杉田で11日に会いましょう」であった。これはYに横浜、Sに杉田、11に合わせて公開日を11日にしたジョークの一種であるが、これによって名前の由来を誤解させてしまうこととなった。このモックアップを作るのにかかった費用は5500万円(当時)で、点滅ランプの機構が用意できなかったため、担当者が隠れてスイッチを入れたり切ったりしていた。


歴史

[編集] 国産旅客機計画
1952年(昭和27年)に日本が連合国の占領下から再独立し、GHQ SCAPによる日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が一部解除されて数年、日本の航空路線は、ダグラス DC-3やDC-4、コンベア440などのアメリカ合衆国製やデハビランド DH.114 ヘロンなどイギリス製の航空機が占めており、日本製の航空機を再び飛ばしたいというのは、多くの航空関係者の望むところであった。

1957年(昭和32年)に日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が全面解除される事を見越し、1956年(昭和31年)に通商産業省(現・経済産業省)の主導で国産民間機計画が打ち出された。翌年から専任理事に木村秀政日本大学教授を迎えた「財団法人 輸送機設計研究協会」(通称「輸研」)が設立されて、小型旅客輸送機の設計が始まった。

輸研には、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)や雷電、烈風を設計した新三菱の堀越二郎、中島飛行機で一式戦闘機(隼)を設計した富士重工業の太田稔、川西航空機で二式大艇や紫電改(及び紫電)を設計した新明和の菊原静男、川崎航空機で三式戦闘機(飛燕)や五式戦闘機を設計した川崎の土井武夫といった、戦前の航空業界を支えた人物が参加、設計に没頭した。航空業界ではこれに航研機を設計した木村教授を加えて「五人のサムライ」と呼んだ。

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